「坊っちゃん」片手に松山市へ行きたい!

「坊っちゃん」片手に松山市へ行きたい!

夏目漱石の坊っちゃんと松山市の関係

実は私、つい最近まで、夏目漱石って「千円札の人」くらいのイメージでした。ゴメンなさいm(_ _)m夏目漱石のイメージが変わったのは「坊っちゃん」です。独特の人物描写と、松山弁と江戸弁とが対照的で絶妙なユーモアを生み出していて、一気に読み進めます。この「坊ちゃん」の舞台となったのが松山市。夏目漱石と松山市はとっても関係が深いんです。1892年、夏目漱石は正岡子規との旅行で松山市を訪れ、高浜虚子と出会いました。そして1895年4月、夏目漱石は愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任したのです。ここでは松山市と夏目漱石の「坊っちゃん」のゆかりについてまとめました。

「坊っちゃん」の舞台となった松山市

まずは、「坊っちゃん」の舞台となった松山市の様々な場所をご紹介します。

坊っちゃんと松山中学校

汽車から降りるとすぐに人力車で「坊っちゃん」の主人公は勤め先の中学校を訪れる。漱石は松山中学で一年間英語を教えたが、「山嵐」のモデルといわれた渡部政和という人の思い出によると、夏目漱石には「坊っちやん」のような行動はなかったといわれている。しかし、生徒はすぐに「鬼瓦」というニック・ネームを献上し「七つ夏目の鬼瓦」と数え歌で歌ったという。夏目漱石の顔には少し痘痕が残っていたので鬼瓦にされたのである。当時の松山中学は一番町、現在のNTT四国支社の場所にあり、大正五年現在の持田町へ移った。松山中学は、戦後松山東高校となったが、当時の建物の一部や門柱が現在も保管されている。

坊っちゃんと道後温泉

「坊ちゃん」の中の「住田の温泉」は道後温泉であるのはいうまでもありません。主人公は道後で団子を食っては生徒に騒がれ、温泉で赤く染まった手拭いをぶら下げて歩いては、赤手拭いと騒がれ、温泉の湯壷で泳いでは、「湯の中で泳ぐべからず」と貼り札をされます。いまでもこの木札が湯口の側に立ててあります。また、三階には「坊っちゃんの間」と松岡譲氏により名づけられた漱石を記念する部屋もあります。例年、松山を訪れた観光客は五百万人以上。道後温泉の歴史は古く、神之湯の湯壷に刻まれた山部赤人の道後温泉を詠んだ長歌と短歌(万葉集巻三)が、温泉を楽しむ人々を遥かな古代へといざなってくれます。

坊っちゃんと愚陀仏庵

「坊っちゃん」の主人公の下宿は、最初は、「いか銀」という骨董屋で、次は「萩野のと云って老人夫婦ぎりで暮らして居る」家です。夏目漱石は現在の県美術館分館の近くにあった骨董商の家に下宿し、次に二番町の上野家の離れ座敷を借りて住みました。これはほぼ小説と同じです。上野家の離れ座敷を夏目漱石はは「愚陀仏庵」と名付けました。明治28年8月、正岡子規は、日清戦争の従軍記者として大陸へ渡りましたが、病を得て帰国、折から戦争も終結しました。療養かたがた帰省して、この愚陀仏庵の階下に転がり込んだのです。漱石は2階を居間とし、50日ばかり共に住みました。子規の帰郷を知った門人たちがどっと集まり、俳句指導が行われ、2階の夏目漱石も積極的に子規に師事し、創作の妙味を会得しました。短期間であれ、こうした同居が夏目漱石に10年後の「坊っちやん」執筆のきっかけを与え、また、「文豪夏目漱石」の出発点となったことは、夏目漱石を語るときには必ず出てくるエピソードかもしれません。

坊っちゃんと子規堂

子規堂は、正岡子規が16歳で上京するまで暮らしていた旧宅を模して建てられたもの。瓦葺き平屋の内部には、子規の遺墨・遺品が数多く展示されています。向かいには坊っちゃん列車も陳列されています。堂内には夏目漱石のデスマスクなどが展示されています。

所在地
愛媛県松山市末広町16(正宗寺境内)
交通
伊予鉄道「松山市」駅下車、徒歩1分

坊っちゃんと愛松亭

津田保吉の小料理屋の平屋建の母屋の西側に2階建ての離れ(愛松亭)がありました。『坊っちゃん』の主人公が山嵐に勧められて移った下宿のモデルになっています。津田保吉の小料理屋の平屋建の母屋の西側に2階建ての離れ(愛松亭)がありました。夏目漱石は1895年4月から6~7月頃までの数か月間、そこの2階に下宿しました。 正岡子規宛書簡(1895年5月28日付)にはこう記されています。「道後へは当地に来てより三回入湯に来ち候小生宿所は裁判所の裏の山の半腹にて眺望絶佳の別天地恨らくは猶俗物の厄介を受け居る事を当地にては先生然とせねばならぬ故衣服住居も八十円の月俸に相当せねばならず小生如き丸裸には当分大閉口なり」

坊っちゃんと愛媛県尋常中学校

1895年4月、夏目漱石は愛媛県尋常中学校(松山中学校、現=松山東高校)英語教諭に就任しました。今では場所を移していますが、その跡には「漱石ゆかりの松山中学校跡」の石碑が建っていて、「わかるゝや一鳥啼て雲に入る」という松山を去る時の漱石の一句が刻まれています。

坊っちゃんと城戸屋

夏目漱石が1892年、1895年それぞれの訪問で滞在した宿屋です。当時は松山随一の旅館で、1895年には松山に来て最初(4月9日)に投宿し、素性の定かでない客をいれる「竹の間」に通されましたが、翌日の新聞で偉い先生だとわかり十五畳の一番いい部屋に替わることになったそうです。1ヶ月滞在した後、愛松亭に移りました。『坊っちゃん』で主人公が最初に泊った「山城屋」のモデルとされています。

現在の城戸屋

戦後、きどや旅館となり敷地は現在の二番町~三番町にまたがっていました。現在は旅館としては営業しておらず、ピストロ「きどや」としてレストランの名前に使われています。夏目漱石が泊まった『坊ちゃんの間』は保存されていましたが戦災で失われ、戦後に復元されました。城戸屋旅館跡碑が建っています。

所在地
愛媛県松山市二番町4丁目
交通
伊予鉄道城南線「大街道」下車、徒歩5分。伊予鉄道城南線「市役所前」下車、東へ徒歩5分。

坊っちゃんのあらすじ

小さな頃から無鉄砲で損ばかりして育った「おれ」は、家族の愛には恵まれず、しかし、使用人の老婆・清(きよ)だけはいつでも「おれ」の味方でした。物理学校を卒業してから、校長の紹介で、四国の中学校(現・高等学校)に数学教師として赴任することになりました。生粋の江戸っ子の「おれ」は、最初、飛び込みで入った宿屋・山城屋に宿泊します。「おれ」の四国での生活が始まります。「おれ」は、学校の同僚たちに、次々とあだ名をつけました。英語教師の古賀は「うらなり君」、数学の堀田は「山嵐」、画学の吉川は「野だいこ」、教頭は「赤シャツ」、校長は「たぬき」。山嵐から「君あまり学校の不平を云うと、いかんぜ」と忠告されるも、田舎の人々の発想などおかまいなしで、自己流を通します。天ぷらそばを4杯食べては、翌日、教室の黒板に「天麩羅先生」と書かれたり、初めての宿直の際、そうとは知らずに無断外出をしてそれでいて平気な顔をしたり、宿直室の布団の中にイナゴが入り込んだり、夜、寄宿生たちから、階上でいっせいに足音を立てられるなどのいたずら(?)をされ激怒したりします。学校では、「山嵐」が煙たがられていた反面、かえって、赤シャツなどは新任の「おれ」を手なづけようとさえします。「おれ」は、山嵐から氷水をおごってもらった分の1銭5厘(りん)の小銭を「奢られる因縁がないから」と山嵐につき出しましたが、突き返され、逆に、山嵐が紹介した下宿を出てくれと言われます。「おれ」と山嵐は冷戦状態となり、「おれ」は、うらなり君を頼り、下宿人を探していた老夫婦を紹介してもらいました。

「坊っちゃん」のあらすじ(2)

「おれ」は新しい下宿先の老婦人から、「マドンナ」はうらなり君の許嫁ですが、うらなり君の家が傾いてから嫁入りをためらっていること、赤シャツがマドンナを嫁にほしいと言いだしていることを聞かされました。憤慨した山嵐が赤シャツに意見し、赤シャツは、今はただ、先方の家と交際しているだけだ、などと言い訳したと聞きました。そして、うらなり君が日向(現・宮崎県)に転任することになりました。月給が上がるとのことですが、赤シャツの陰謀としか思えません。ある日、中学校と師範学校で騒ぎが起きます。そのときは、格上の師範学校に中学校が道をゆずる形でおさまりました。「おれ」は、いったん宿に戻ります。仲直りをした山嵐がやってきたので、芸者を呼び出しているという赤シャツをこらしめようと相談を持ちかけられていると、中学校の生徒でもある赤シャツの弟が、祝賀会の余興を見に来ないかと誘いにきました。祝賀会会場で再び、中学校と師範学校のもみ合いが始まり、今度は本格的な喧嘩になりました。山嵐と「おれ」は、喧嘩を止めようとしましたが、警察が来たとたん、生徒たちはみな逃げだし、山嵐と「おれ」は事情を聞くため署まで連れて行かれました。翌日、教室に入ると、「おれ」は生徒から拍手をもって迎えられました。しかし、新聞には、山嵐と「おれ」が原因で喧嘩が発生したという記事が掲載されます。山嵐は辞表を出すよう校長から言われ、「おれ」は言われませんでした。「おれ」は辞職することにした山嵐に協力して、張り込みをし、赤シャツと野だいこが芸者を連れ込んだ宿から出た現場をおさえました。赤シャツと野だいこを、さんざんこらしめました。「おれ」は宿を引き払い、辞表は港からたぬきに郵送しました。そのまま、東京へ帰りました。その後、街鉄(後に都電と呼ばれるようになる路面電車のこと)の技手となりました。